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 講師プロフィール 

ママの「しんどい」を「大丈夫」に変える先生

中村より子

東京都多摩地区出身/在住

1982年1月生まれ

高校生ADHD息子、小学生娘の2児の母

メンタル講座受講生300人以上

​息子は支援級から普通級へ、高校第一志望合格

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7月27日 書籍発売!

​発達障がい育児当事者としての想い

​社会的課題の小さな一歩を踏み出す

「発達障害」という言葉は、2005年の発達障害者支援法の施行以降、少しずつ社会に浸透してきました。それでも、2022年の文部科学省の調査によれば、小中学校の通常学級において、発達障害の可能性があり特別な支援を必要とする子どもは8.8%、30~40人のクラスで3~4人にのぼるとされています。

 

これだけ多くの家庭がこの課題に向き合っているにもかかわらず、育児の具体的なノウハウやアプローチは増えつつある一方で、お母さん自身のメンタルに寄り添った理解やサポートがまだまだ不足している現状があります。

私自身、「子育てより仕事が好き」と思うタイプの人間です。

育児に対して楽しさや喜びを感じる反面、「仕事の方が向いているのでは」と感じることもありました。それに加えて、私の原体験として、自分自身が親子関係や家庭環境で生きづらさを感じてきたことが大きな影響を与えています。その経験から心の問題に関心を持ち、心理学や自己肯定感について深く学ぶようになりました。

学びを通じて、「人生迷子」「自分迷子」になりがちな女性たちが抱える課題に気づき、自分自身の軸を見つけて自己肯定感を高めるためのメソッドを構築しました。これを使い、たくさんの女性たちと向き合い、セッションを通じて「自己理解」「自分軸」「自己肯定感」を深めるサポートをしてきました。

その経験を育児に応用したのが、『空回り子育て脱出ノート術』です。このノート術は、私自身が発達障害児を育てる中で、「どうすれば育児の苦しさを軽減し、もっと前向きに取り組めるか」「自分らしさを発見し、毎日に笑顔を増やし、自分も子どもも大丈夫と思える自信を生み出せるか」「子どもの人生も自分の人生もあきらめない未来への希望を見出せるか」を試行錯誤した結果、体系化されたものです。

ノートに感情・思考・行動を書き出し、目に見える形にすることで、心のもやもや、ぐるぐる思考を整理し、自分なりの解決策を見つけられる仕組みです。

発達障害児やグレーゾーンと呼ばれる子どもを持つお母さんたちは、見た目が”普通”なのだし、「”普通”の子のように育ってほしい」という理想と現実のギャップに苦しみ、自己否定や絶望、不安を抱えがちです。しかし、このノート術を使えば、子育ての中で感じる苦しさや孤独感、悩みを少しずつ整理し、自分を肯定しながら前へ進む力を取り戻せるようになります。

私はこの『空回り子育て脱出ノート術』を通じて、発達障害児を育てるお母さんたちが「子育ての中で自分を見失わない」「自分らしい子育てを見つける」ことをお手伝いしたいと思っています。このツールが多くの人の支えとなり、子育てを通じて自己成長を感じられるきっかけになることを心から願っています。

息子と私とノートのストーリー

”うちの子、何か違う・・”から
​高校第一志望(普通科)合格までのストーリー

​就学前(保育園時代)

ちょっとやんちゃな男の子?!

・電車内や病院で端から端まで走る

・病院や施設に掲示してあるポスターやホワイトボードの磁石をとって遊んでしまう

・運動会の親子競技では私を離れてどこかに行ってしまう

・保育園のお迎えから保育園を出るまでに20分以上かかり、気づいたら私と息子だけ取り残されている

​・怒っても怒っても、ちゃんと話を聞いているようで全然本人に届いていない感じがする

私の子育てが間違っているのかな、母親としての能力がないのかな、しつけがなっていないのかな、活発な男の子ってどこの家もこんな感じなのかな。

​どうして、他の子と違うの・・心も体も疲れてしまう。

子育てが楽しいなんて、程遠い・・そんな思いでいっぱいでした。

​離婚/シングルマザー​ノート生活スタート​

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仕事と育児、家庭での空回り
 

・自分の育児に自信がもてない

・育児よりも仕事がしたい

・頑張った分だけ自分が評価されたり、感謝されたり、社会とつながる環境に身をおきたい

 

そのような気持ちがどんどん芽生え、不満や不安、焦りが積み重なり、そのうちに夫婦関係もギクシャクしていきました。

就職できて仕事を始めても、子どもより仕事を優先させるように見える私に対して「お前は母性本能がない」とまで当時の夫に言わせてしまったり、喧嘩や言い合いは絶えませんでした。

”離婚”がチラつく&ノートスタート

 

​息子が4歳になる頃には、私一人の方が自信をもってこの子を育てられるのでは・・という気持ちが芽生え始め、”離婚”の文字が頭をちらつくようになります。

私だって自分らしく、自信をもって生きていきたい。この子の人生も、自分の人生もあきらめたくない、そんな思いにもなり、このころからノートに気持ちや行動、考え、価値観、お金の使い方など”書くこと”を始めます。

こうして、私の自己理解や自分軸づくりがスタートしていきます。

 

”離婚”へ

 

自分で自分の人生、子育てを再構築したい、と強く思い、息子が5歳の時に離婚します。

発達検査を決意&10分でADHDと診断

困っていたのは5歳の息子本人だった

 

・5歳の時に「ぼく、わかっているのにできないんだ」という息子の発言を聞いて、発達検査を就学前に受けること、検査結果をもって小学校では最適な支援を受ける覚悟をします。

受けるときめたときには、診断をもらう覚悟でしたし、この息子の言葉が、検査の予約の電話をする最後の一押しになりました。

・病院では先生と話し始めて10分もたたずに

「お母さん、覚悟をもっていらいしてるから伝えますね」「この子はおそらくADHD」と検査を受ける前に教えてくださいました。

​・就学前に薬を使って副作用などを調整して準備していきましょう、と言われました。

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​5歳 投薬開始

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投薬の効果への期待と不安

・薬は最低限でスタート

「この子なら、今から薬を活用しながら支援を受けて準備していけば、後々にはお薬もいらなくなる程度」とのお医者様のお言葉で、投薬を決意しました。

・しかし小さい息子の体に、薬を投与することへの不安、罪悪感、脳への作用、ということで、将来の副作用など、心配もつきず、「薬なんて飲ませているの?」と言われることが当時怖かったのを覚えています。

・さらに、薬がどう効いているのか正直わからなかったり、”薬を飲んだら育児の困りごとが減って自分の育児がラクになったらいいな”、というような一抹の期待もむなしく、”本当にこれでいいのかな・・”という漠然とした不安がつきません。

・とはいえ、大きな薬の効果がないものの、薬を飲み忘れたり、薬がきれると食欲が増す息子を見ていて、薬が効いていることがわかるようになっていきました。

​この頃の気持ちの整理とノート活用

 

このときノートに書いて整理したことは、この子をどういう子に育てたいか、そのために母親として、どういう目的で投薬をすると決めたのか、言葉にして明確にすることでした。

小学校に入って、脳の機能のせいで日常がうまくいかない、ということを減らすことを手助けして、本人の「僕はできない」という気持ちをなるべく減らすこと。

 

”できないことをできるようにする”ことも大切ですが、その前に自己肯定感を育てることで、土台をつくり、小さい成功体験を積み上げられる環境をつくるための投薬だ、と自分で文字に起こすことで確認しました。

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卒園式

小学校1,2,3年生ごろ

小学校入学時

・当時まだ通う小学校に特別支援学級や特別支援教室がなく、市内の別の公立小学校の”通級”に週1回行くところからスタートしました。

・在籍学校から、通級のある学校までは、サポートが受けられる特別のタクシーを利用。

 

​・2年次から特別支援学級が学校に設立されることになり、積極的に支援学級への在籍を希望し、支援学級と通常級を併用します。

現実を思い知らされた授業参観

 

・程度は低いADHDと言われていましたので、”なんだかんだ学校生活はおくれているだろう”、と軽く思って参加した授業参観。しかし息子だけ、教科書も筆箱も机に出ていない、離籍して手を洗いにいく、消しゴムと定規で授業中遊んでおしまい、机の下にもぐって座りこんでいる..そのたびに支援の先生が隣について声をかけてくださっていました。

それを目の当たりにしたとき、本当の意味で「この子はやっぱり”発達障がい”なんだ」と自覚した気がします。

学校・学童、全体での温かい支援

 

しかし、全校の先生がADHDをもった子と認識してくださっていたので、移動教室で迷子になっても、廊下でうろうろしていても校長先生、副校長先生を含めたたくさんの先生方が息子に声をかけてくれていました。

そして私が保護者会や面談に伺っても「○○くん、~で成長しましたね!」と私にまでも声をかえていただく日々。

​本当にみんなで息子の成長を見守り喜ぶ日々で私のメンタルも本当に救われておりました。

さらには学童も当時は延長まで使用してみていただいておりましたが、良好な関係が作れて、本当に感謝しています。

この頃の日常とノート活用

 

もともと育児よりも仕事が好きな私です。

学校、さらには学童とも蜜に電話や連絡帳などで連携を取りつつ、息子の理解者がたくさんいる環境づくりに成功した私は、息子をみんなで育てて頂けていることに感謝が深まることで、その時間でできる仕事を全力投球しよう、楽しもう、とより思えるようになりました。

”発達障がいの子を学童に預けてご迷惑ではないか”など、はじめはそういう罪悪感のような思いもありました。

しかし「自分の人生もも息子の人生も大切にする、どちらもあきらめない、そのためにどうしたらいいか?」という視点で、どうやったらできるのか書くことで解決していました。

24時間を書き出して、隙間時間を大切にしたり、子どもと向き合う時間と自分の時間を明確にしてどちらも達成感を得ることで罪悪感を減らしていきました。

小学校3,4年生の頃

金管バンドに入部、妹の誕生

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この子が本当に集団で金管楽器の演奏ができるのか・・!?

4年生になったときに、学校の活動としてある「金管バンド」に入りたい、と言い出しました。

​私はピアノは習った経験は多少ありますが、金管楽器など触れたこともありません。

 

「学校の勉強だけでなく、金管楽器の練習が今の生活の中で果たしてできるのだろうか」「私がサポートしきれるのだろうか」「それ以前に皆様にご迷惑をおかけするに決まっている」「楽器を落とす、振り回す、壊す・・などしたらどうしよう」

さらに演奏会やイベントがあることも知っていたので、「学校外の人が大勢あつまる集団の中で、待ち時間なども含めしっかりやっていけるのだろうか」「変な音を出さないか、練習でやる気のない態度をみせないか」もう頭の中がぐるぐる思考がめぐっておりました。

とはいえ、夢中になることを1つでも見つけてあげたい、という親としての思いもあります。

迷った末、支援の先生、担任の先生とも相談して、見学と説明を聞かせていただくことになりました。

​定期的に指導に来てくださる先生は、なんと心よく引き受けてくださり、楽器の取り扱いだけお約束をして入部させていただくことになります。

親の私以上に、子どもを信じて子どもの成長のチャンスを作ろうとしてくださる先生方の存在にとても救われた思いです。

そのあとも、特別支援の先生と、本人の疲れ具合や練習の内容など考慮しながら計画を立てて、連絡帳でやりとりしながら、学校生活を調整していくようになります。

​4年生の舞台では、演奏開始時、落ち着きがなく声をかけていただく姿が舞台の上から見て取れましたが、それ以降は演奏会での個別のサポートもなく、6年生の終わりまで、演奏会の練習、準備、当日の待ち時間、終わったあとの打ち上げなども彼なりに参加し、3年間金管バンドのユーフォニアム担当をやりきることになるのです。

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これは息子にとっても私にとっても大きな自信と経験になりました。私は毎回演奏会を見るたびに涙が出ましたし、

本人の音が出ているのかいないのか​、正直わかりもしなかったのですが、集団に存在して頑張っている姿そのものに成長と感動をもらいました。

9歳年下の妹の誕生

 

また、家庭では私が再婚をし、今から思うと息子の子育てが多少落ち着いてきて私の心の余裕ができていたのか、もう一人子どもが産めたらいいなという気持ちになり、息子に妹ができます。

出産の頃、息子は3年生でしたが、学校帰りに私が出産をする病院に一人できて勉強をしたりしていました。

出産後も、息子はもちまえの優しさで、いつも妹に接してくれます。これは高校生の今になっても変わりません。

​息子のいいところだと思っています。

この頃のノート活用

 

下の子の誕生、金管バンドのスタートで、やることが増えていきました。

 

そのとき発生するのが「あ~あれやってない」「提出期限すぎちゃった・・」「買うの忘れた・・」といったミスの連発で、焦り、イライラ、自己嫌悪、といったネガティブ感情と行動の空回り。

それを防ぐために、買い物リスト、行動リスト、ToDoを手帳に書くことでミスを防ぎ、小さいことも「これができた」「あれもできた」と✓していくことで空回りを防ぎ、達成感を得る仕組みをつくりました。

小学校5,6年生

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学校行事の参加への変化

5年生では、運動会の応援団にチャレンジ。

また、宿泊行事でも特別支援教室の先生のお部屋ではなく、通常級の部屋割りに入れてもらい、みんなと過ごすことができるようになりました。

​ほとんどの授業を通常級で過ごし、朝の会の前と、帰りの会の前に、その日の活動の確認と振り返りを行う毎日でした。

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6年生になってコロナ禍に突入。活動が制限される中、

​自由研究が学校の中で選ばれて市内で発表をする機会を頂きます。レーザーポインターをつかって舞台で説明する息子の姿に

「この子ならこの先も大丈夫、中学でもなんとかなる」という

自信を私の中で得られた気がしました。

運動会ではみんな自作の法被を着て20分程度のソーラン節を踊り切る伝統がありますが、息子の法被だけ、絞りを入れすぎた法被(紐でぐるぐる巻きにして染めたようで)となり、これまた目立つ法被となってしまいましたが、そんな”やっぱりこの子は他の子と違うんだな..”という私の気持ちも、心の底から”この子らしさだ、この子らしくて最高だ”と思えるようになりました。

卒業式​​

​卒業式では本当にたくさんの先生が、息子の成長を喜んで声をかけてきてください、私が思っている以上に本当にたくさんの方が息子の成長に関わってくださっていたことを痛感しました。

また、金管バンドのお母さん仲間からも息子の成長を驚かれたりほめていただき、なんと息子の同級生からも「上から目線の言い方で申し訳ないけれど、一番頑張ったのはお前だと思う」というような内容のお手紙まで頂きました。

​先生方、他の親御さん、そして同級生からも成長や頑張りを見て頂き、認めてもらい、こんなに幸せな卒業式はないと、私はとにかくあらためて感動した日となりました。

この頃のノート活用

 

6年間を通じてやりきれたことは、私自身の自信にもなり、教科ごとに先生が変わる中学校、そして高校受験に向けて一体この先何が待ち受けているんだろう、と不安もあるものの、きっとまた何とかなる、という気持ちも生まれていました。

またコロナ到来で、日常の当たり前の変化や働き方の変化がおき、社会的にも価値観が変化していく時代になりました。

自分の将来も考えよう、自分がやりたいこと、自分が描きたい人生などもノートに書くようになっていきました。

この子の育児のせいで○○ができない、などとは思わずに、自分の人生の後半を描くことを考え始めます。

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中学生

特別支援学級→特別支援教室→支援なし

 

中学生では、1年生では特別支援学級、2年生では特別支援教室、3年ではすべての特別支援を抜けて卒業することになります。

3年間全うした吹奏楽部

小学校のときにやっていた金管バンドのユーフォニアムを続けるために、吹奏楽部に所属し、3年生の10月まで活動が続く学校の中でも市内でも有名なハードな部活にも関わらず、全うすることとなりました。

楽譜がよめないまま、ユーフォニアムを続け、それでもわずかではありますが、3年生では身内向けの演奏に限られますがソロパートを任せてた頂くまでになり、1つ1つの演奏会が私にとっても成長を確認できるいい時間となりました。

​ADHDによる課題

一方、課題もたくさんあり、時には怒鳴ってしまい、自己嫌悪するときもありました。

学習面では、忘れ物、提出物がとにかく課題となりました。

情報をキャッチできない、メモができない、メモをとっても見ることができない、期限までに準備ができない、当日にもって行き忘れてしまう・・

様々なADHD気質の弱点に本人も私も悩まされました。

整理整頓ができないので、すべての科目ごとに100円ショップのビニールケースに科目の住所(戻す場所)を決めて、

一緒に手帳を書いたり、コルクボードボードを買ったり、いろいろなことを親子でチャレンジした気がします。

それでも、プリントがぐしゃぐしゃ、紛失、教科書がない、ノートがない、提出のプリントがない、と半泣きで何時間も一緒に探したこともありました。

中3の受験期になると、できあがった提出物が玄関に忘れられているときは2回ほど学校まで届けたこともありました。

授業もまじめに聞いているのに、それなりに頑張っているのに、ADHDの特性の短所となりえるところが、私も悔しくもあり、それでも「なんでできないの・・!!」という気持ちをなるべく心の中にとどめて、「どうしたらできるか、一緒に考えよう」と歩んだ3年間でした。

​息子のチャレンジとともに自分のチャレンジ

 

コロナがだんだんと落ちつき、いろいろなバランスを取りながら社会全体が再起動し始め、私も人生後半、これをやりきりたいという夢、目標ができます。

 

そのために、自分がやってきたことを体系だて根拠をもってお伝えできるようになるために、より心理や自己肯定感、習慣化などを学びをスタート。

自分のやりたいことと息子の応援、また保育園に通う下の娘の育児のバランスを時間、環境、メンタルを整えながら実現させていきました。

高校受験&中学卒業&高校入学

高校受験

高校受験はほかのお子さんと同じ条件で受験をし、会場で試験を受け、第一志望に合格しました。

夏には学校見学に一緒に行き、10月まで吹奏楽部を全うし、勉強も提出物も本当に大変だったと思いますが、受験まで乗り切り、なんとか頑張った3年間だったと思います。

卒業式

​卒業式に凛とした顔で退場する息子の横顔は、義務教育を無事終えられたという安堵と、本当に頑張ったね、という気持ち、

あなたのお母さんをできたからここまで一緒に私も成長できたよ、という感謝の想いなど様々な気持ちでいっぱいでした。

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高校入学

 

高校は入学書類の健康調査の紙にADHDをもっていること、投薬があることを記載しました。

 

担任の先生も把握して接してくださっているようですし、中学よりは回数が減りましたが三者面談でも寄り添っていただけました。​

特別な支援は受けられませんが、困りごとを相談できる環境はあるようです。

当初は友達にもADHDは言わずに”フツウの子”として頑張ってみる、と言っていましたが、宿泊行事で仲間に話したとのことでした。​うちあけても別になにかが変わったことはないようです。

高校生活

高校では、これまでとは通学時間も長くなり、通うだけで疲れてしまうと本人が判断し、部活には入らないと決めました。

日常では相変わらず、「お弁当箱出しなさい」「体操着洗濯しなくていいの?」などの会話はありますし、時間が守れず遅刻をしていたり、柔道着を忘れた、0点の小テストなどが見つかりますので、苦手と向き合い努力はしているようです。

高校に入ってからは、私はもう口出しをほとんどしていません。

ここからは本人が課題を感じ、思考錯誤する時期かと思い、ちょっと離れたところから見守っています。

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投薬

投薬もやめてもいいと何度となく言われてきたものの、中学生活になれてから・・、受験が終わってから・・と、本人の不安もあり、なんとなくここまで続けてきました。

高校1年の3学期になり、本人の口から「薬がない方が、友達や先生とのコミュニケーションがうまく取れる気がする」という話もでて、今後は本人が主治医と相談して調整していくことになります。

いつだったか本人が「大人になったら薬は飲まないでいられるようになりたいな・・」と言ったことがありましたが、この調子だとそれも実現するかもしれません。

 

ノートによって何が育まれてきたか

 

正直、たくさん日記を毎日書いたり、ノートをきれいに書くタイプ​​の人間ではありません。

ですが、これまでノートを使って「自己理解」をしてきたことで自分の扱い方がわかってきたこと、「自分軸」で自分の価値観に気づき、人生を自分で選択し行動に移せるようになってきたこと、「自己肯定感」を育てる仕組みをつくることで自信をもてるようになったことは、間違いなく、私の生きる力、幸せになる力になりました。

自分自身と子どもたち、そしてそれらの未来をより深く強く信じて前へ進む力になりました。

人生100年時代、そしてどんな人の人生もいいことばかり、悪いことばかりではありません。

私にも、子どもたちにも、この先何があるかわからない。社会がどう変わってしまうか、変化していくか、わからない。まさにVUCAの時代。

だからこそ、この力を身につけられたことは本当に大きかったと思いますし、育児で育自ができたと心から思ってます。

​私の生き方、背中が子どもたちにどう映っているか。子どもたちの生きる力、幸せになる力になると信じています。

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講師​経歴

・12年3000人以上の女性の心と体のサポート
・自己肯定感アカデミー認定講師として登壇
・小学校の特別支援学級の支援員
・ライフチェンジ(人生再構築)講師として
​ 「自己理解」×「自分軸」×「自己肯定感」のオリジナルメソッドで
 個別カウンセリング、メンタル講座受講生300人以上
​・サンクチュアリ出版 セミナー開催
​・2025年7月27日書籍
「発達障がい・グレーゾーン子育てママがラクになった空回り脱出ノート術」出版

保有資格

自己肯定感アカデミー認定講師

自己肯定感習慣化コンサルタント

自己肯定感/HSP/ストレスケア/グリーフ カウンセラー

アドラー流プロフェッショナルメンタルトレーナー 

自己肯定感/児童英才教育コーチ

自己肯定感ノートインストラクター

健康管理士一般指導員

中学校高等学校教員免許              など

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